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【本を書こう!!】 

「ボケないうちに聞いておこう、話しておこう」
★公開著作★

★題名懸賞募集★

題名募集ラキング等←クリック

創刊号 木下英範-美穂 著

木下英範  

kinosist@hotmail.co.jp

木下(角井)美穂

 kinosist@hotmail.co.jp 

木下英昭

z@zzxx.jp

団塊世代のつわものどもに聞いておこう。

そこにはあなたの会社が成功するヒント、あなた人生が成功するヒントがあります。

ジャパンナンバーワンを取り返せるヒントがあります。

日本の各地の地域No.110位位の長寿企業の経営者

千〜万人ほどに聞くと千〜万冊のロングセラーが出来ます。

時代が変われば、世代が変われば更に繰り返し良い本が無限に著作され続けます。

若い人、子孫や親族、知人が話を聞いたり相談したりして著作します。

初版をひな形にすれば著作は楽ちん、後は改善しながら進めれば誰でも書けます。

出版社喜ぶ、読者喜ぶ 著者の従業員の誇りになる本が出来ます。

ビジネスや人生の成功の役に立つ本にするのが大事です。

 

説明のつづき ここ



掲示版等は →  ここ ご意見ご提案お願いいたします。お名前やメールアドレスはデタラメのものでも良いです。他の人の意見等も見れます。

 


Q
 をお願いします。出版社が協力してくれそうです。

バイブルとなるような話を上手く聞き出しましょう。

 

創刊号 2冊にした方が良いかも?

1、角井實角井食品創業者

2、木下英昭マルナカ工業創業者

 

Q、一番古い記憶は?

A34歳ころ家の前にある消防用貯水池に落ちたこと 写真( )

2間×2間、深さ2.7m位に落ちたが犬かきで対岸にたどり着いて一命を取り止めた。

怖かったので今でも覚えている。

このことは今まで家族にも友人にも話してないがその理由は親に心配かけたくなかったからであろう。

今、考えると死の恐怖は人間の思考の中でかなり強いものであり、生存の上で大切な深層意識である。

Q、次の印象的な記憶は?

A5歳ころ写真を撮ったこと。着物姿であった。写真( )

その頃はほとんど着物姿であった。小学34年生頃までは着物と風呂敷であった。写真( )

Q、次の印象的な記憶は?

A5歳ころ海を見たこと。家は葉タバコ生産農家であったので820日頃までは忙しくて海へは行けなかった。

8月後半の海は台風が接近しており波が荒い、その波が恐ろしく感じた。写真( )

Q、次の印象的な記憶は?

A5歳ころ犬吠埼灯台へ連れて行ってもらったこと。写真( )

霧笛の音が大きくて恐ろしかった。灯台が回る仕組みが錘の下がる力で歯車を回すのだと聞いて

中を見たくてしょうがなかったが見せてくれと言えなかった。

Q、次の印象的な記憶は?

A310歳ころ祖父がイタズラを教えてくれた。写真( )

祖父は猟銃をもっていた。薬きょうに自分で配合した火薬を詰め弾丸は鉛を炭火で溶かし、

斜めにした板にそそぐと玉になり転がり落ちる、それを篩にかけ直径1ミリ位の形の良いものを作るのだ。

僕は炭火に風を送る手回し扇風機を回すのや篩を振るのを手伝った。

その他に硫酸や塩酸、硝酸、硫酸銅等の薬物もたくさん持っていた。

エンジン(発動機)も木炭の炉を作りその煙でガソリン代わりに回していた。写真( )

平ベルトで脱穀機やもみすり器を回す、そのベルトに扇風機の軸に動力が伝わるようにして木材に風を送っていた。

溶接(ろうずけ)等も実に上手かった、祖父の溶接(ろうずけ)した山芋ほりは僕が鉄骨屋を創業した時には工場に置いて手本にしていた。

雀やウサギのとらえ方、ナイフの磨き方、王水の作り方、ダイナマイトの作り方等いろいろ教えてくれた。

それらは何れも生産性を高める工夫と技術の根源であった。

三つ子の魂百までもというが幼少期の環境は人生を左右する大事なものだと思います。

これから子育てするお前たちにも伝えたい。

鳥類の刷り込み現象をみてもわかるであろう。

Q、次の印象的な記憶は?

A6歳の時弟が4歳で死んだこと。

弟は僕と違って頭がよく4歳で文字が読め計算が出来た。

生まれつき心臓が悪く4歳の春肺炎になり母親に抱かれ静かに永眠した。

その時僕はその場にいた。母が僕に声をかけ良久(弟)が変だといった。

呼吸していない弟を見ると恐ろしくなったが数キロ離れた畑にいる父に知らせに夢中で走った。弟が死んだ。

僕は6人兄弟だが4人死んでしまった。上の姉2人は僕の記憶にはない。

Q、次の印象的な記憶は?

A6歳の時妹が生まれたこと。凄く嬉しかった。毎日妹と仲良く遊びかわいがった。

Q、次の印象的な記憶は?

A6歳の時お爺さんが小学一年生という本を買ってくれたこと。写真( )

多分これが僕を学校嫌いにした原因だと思う。

6歳の4月から毎月買ってもらう本は素晴らしいものであった、表表紙から裏表紙、

背表紙まで隈なく何回も繰り返し読んだ。特に理科の科目は面白かった。

Q、次の印象的な記憶は?

A5歳か6歳の時加藤さんから自転車を貰ったこと。写真( )

加藤さんは東京でお店を経営していた人、戦争で店やお金は燃えてしまった、

残ったものを持って逃げてきた人をおじいさんが土地を無償で貸して家を建ててあげたものである。

その他にもお爺さんは2組の夫婦に土地と家を与えた。

そのおかげで僕には親や祖父が大勢いるような状態でとても幸福であった。

特に加藤さんは冷蔵庫や蓄音機、ラジオ、自転車他いろんな物を持っていて、見せて説明してくれた。

といっても、みんな貧乏である。お金や食べ物が豊富に有ったわけではない。

少しばっかり無償で貸してあげた畑で食物を栽培して飢えをしのいでいたのだ。

サツマイモの種芋を貰いに来ていたのを覚えている。

種芋はスカスカで不味く普通は食べないのだが。

Q、次の印象的な記憶は?

A5歳か6歳の時加藤さんからもらった自転車で佐久間牧場へ2Km位の所へ毎日

4合瓶を持参し牛乳を入れてもらい持ち帰り良久(弟)に飲ませていた。

Q、次の印象的な記憶は?

A6歳頃の時その自転車のブレーキがちぎれて坂で転倒かなり怪我をした。

その頃から好奇心が強く木登りしたり土手からジャンプしたりお寺の屋根に登ったりイタズラが激しく

度々肩のくるりを外した。その都度父の弟が多古の仁生堂(現在の石橋内科)まで自転車で載せていってくれた、

父の弟は6人兄弟の末っ子だったので年が父と自分の中間ぐらいで僕が7歳くらいまで一緒に暮らしていた。

太田実 大田工業の創立者 マルナカ工業で技術を覚え独立した

Q、次の印象的な記憶は?

A、小学校へ入学したこと。写真( )

友達が大勢で来て幸せだった、楽しかった。

しかし、授業そのものは退屈以外の何物でもなかった。

小学一年生の子供が成績を良くするのが目的のような本だから、それを入学一年前に完全に読破して理解していたからである。

小学に入学してまたもや小学一年生を買ってくれたが、祖父に頼んで小学二年生にしてもらった。

以後、5年生まで一年先送りして小学館の本を読んだ。

最初の数か月は先生が怖かったせいかテストを真面目にやった。

結果はオール100点である。

小学一年生を一年も前から読んでいたのと、生まれたのがクラスで一番早かったこと。

生まれが早いということはテストの結果に大きく反映した。

7歳で1年違うと14%位違う、これは大きい。

ってなことで数か月は成績がクラス一番であった。

僕にとっては悲劇である、父兄参観や学芸会、運動会等では発表とか挨拶をさせられる。生徒会長もやらされた。

本当は頭がよく勉強ができたわけではないのに。

字が下手で臆病者の自分には大嫌いなことであった。

半年もすると学校や先生にも慣れテストをワザと間違うという手段をとった。

それでも、目指すビリにはなれなかった、これは未だに謎である。

わざわざ人の名前を書いたり、ありもしない名前で提出しても1番ビリにはなれなかった。

ビリから23番目は長い間維持できた。

記憶力と社会性のない僕は教科書を忘れ遅刻は常習犯であった。

2年生の時からは教科書は家へ持ち帰らないことに決めたので教科書は忘れなくなった。

宿題などやったことがない。

しかし、理科の実験だけは楽しかった。

本に書いてあることを実際にできるので興奮状態。

それと、小学館の本は漫画やSFみたいなものに興味があった、全部読んだ。

テレビやスマホがなかったからだ。

授業中に教科書を立て後ろへ隠して読んだ。

【誕生秘話】本当の僕の誕生日は41日エイプリルフールらしい。そのせいでバカになった訳ではない

祖父が気を利かして早く学校へ行くのは可哀想だから役場へ42日で届けたらしい。

もし、41日に届けてくれていたら勉強嫌いにはならかったかも知れない。

まぁ、発育遅れで記憶力の弱い僕がそこそこ成功したのも勉強をしなかったのが吉と出ただけかもしれません。

間違った知識はないほうが良い。

子供のころ教わった、

・水は極力飲むな

・栄養は十分取りなさい

・飛行機の浮かぶ原理は翼の曲面で上の方が長いから空気が早く流れ気圧がさがり浮上する

これは2000年ころまで教科書に書いてあった。

先生に背面飛行のできる理由を聞いたが答えられなかった

・薬の量が15歳の誕生日に急に倍になる

・食塩の摂取量が体格にかかわりなく一日何グラムと

これは2015年現在調理師の試験かなんかで使われている

・コリオリの法則

これは2015年現在教科書やウイキペディアでも間違った解説をしている

その他間違った知識は山ほどある。

1900年初頭神や仏、死後の世界の有無については決着しているハズ。

このへんは別書「科学的成功哲学」を参照して下さい。

頭脳のストレージも空きがあったほうが良い。

Q、次の印象的な記憶は?

A、小学の先生を怒らせてしまいハンマーで殴られ頭蓋骨陥没事故

何が原因だったか忘れてしまったが山合先生が本気で怒りいつもは柄の方で殴るのだがその時は鉄の方で殴られ大けが押した。

心配した先生は家まで僕を送ってくれて親に詫びた。

その時、親が先生の真剣な教育ぶりにお礼を言っていたのは覚えている。

今の先生や親とは大違いだ。

Q、次の印象的な記憶は?

A、やはりイタズラの話

・校庭にロープを埋めて先を少し出しておく。

先生が気になりロープを引っ張るとその先は大きな植木の間に隠した水入りバケツのつっかえ棒に繋がっていて引っ張ると、

つっかえ棒が外れて引っ張った人が水浸しになるという仕組みだ。

スゲー怒られたことは言うまでもない。

・教壇の下に隠れると約1時間出てこられないので困った??

・教壇の上の机の脚を教壇が振動したら落ちるくらいの位置に置いておく。

これは女の先生が見事に引っかかったのは面白かったがマジ泣きされて凄く反省した。

この時から女性や弱いものを虐めるのは止めた。

逆に強いものには徹底交戦し暴力団とけんかをしてあばら骨を折ってしまい。

本当かどうか分からないが包帯をグルグルまきにした暴力団が家に乗り込んできて親が大金を払って謝った。

それ以来暴力も止めた。非暴力抗争に変えた。

ノーベル平和賞候補になったガンジーや2014年ノーベル平和賞したマラらさんより速かった。

しかし、僕はノーベル賞ではなくノータリン症だ。

今でも公場対決なら自信がある 注釈( )

Q、次の印象的な記憶は?

A、小学4年の時6年生が理科の実験でモーターの組み立てキットでモーターを組み立てているのを窓越しにみて興味を引き理科室へ忍び込み観察した。

構造を知ると急いで家に帰り家にあった細い針金を新聞紙を巻き絶縁してエナメル線の代用にした。

鉄芯は適当な釘を4本束ねたブラシ部分は針金を束ね上下を糸で結んだ。

外側電磁石も新聞針金で作り海中電気の電池を外して繋いだ。見事に回った。

前に話した加藤さんから貰ってあった壊れたラジオのスピーカーから外した馬蹄型の永久磁石を外側の磁石に使ってみたらいっそう力強く回って電池も長持ちした。

ジャンクのラジオの電源トランスにエナメル線を発見しそれを利用してモーター作りの名人になった。

Q、次の印象的な記憶は?

A、中学校へいったこと

中学生時代は小学○○生買ってもしょうがないので

初歩のラジオ写真( )を読んでいた→実際は小学6年のときから。

図書館にあった科学の本は面白かった。

アインシュタインの相対論はすぐに理解できたが、湯川秀樹の素粒子理論は理解できなかったが強い興味を覚えた。

ニュートン力学は素晴らしかったが当たり前すぎて面白くはなかった。

マックスウエルの電磁理論はとても面白かった。

友達から借りて読んだ鉄腕アトム

Q、次の印象的な記憶は?

A、中学一年の時同級生の家まで(300m位)エナメル線を配線して有線無料電話を楽しんだ。

Q、次の印象的な記憶は?

A、中学生の時鉱石ラジオを作った。

Q、次の印象的な記憶は?

A、中学2年のころからジャンクラじをを集めて聞こえるラジオをつくる名人になった。

Q、次の印象的な記憶は?

A、中学3年の時はラジオを改造して送信機を作った

数キロ離れた友人は送信機がないので、自転車で聞こえたかどうか聞きに行った??

隣の人からラジオから英昭さんの声が聞こえると苦情が来た(作りが悪いので高調波等が出まくっていたのだろう)

Q、次の印象的な記憶は?

A、中学3年の時学校に白黒テレビが来た、

お笑い3人組は授業をさぼっても欠かさず観た。

そして、友達とお笑い3人組を結成した。が、

あまり売れなかった。

Q、次の印象的な記憶は?

A、高校受験 中学校の成績が悪く先生が無理だといった

多分先生の脅かしだったのだろうと思うが、落ちたら親にも悪いと思い直前一か月位に猛勉強した。

結果は何と成績3位、下からでなく上から3番の好成績で合格した。

それが、アダとなりクラスの会計に任命されてしまった。

僕の一番嫌いな仕事だ。企画を立てるのは好きだが会計は後始末で一円も間違ってはいけない。

僕は間違い失敗冒険が大好きなのだ平凡几帳面は嫌いだ。

そしてまた、登校拒否やテストの白紙提出等が始まった。

農業高校であり先生も近所の知り合いが多かったせいか先生とのもめ事はあまりなかった。

しかし、3年の時あまりにも遅刻や欠席が多く親父が学校へ呼び出された。

最初先生に詫びていた親父が怒りだして校長先生と喧嘩を始めた。

英昭こんな学校辞めるぞ、帰ろう。

10日位家にこもっていたら先生が謝りに来て仕方なく翌日から登校した。

だから、卒業証書はくれようとしたが受け取りを拒否した。

自分では高校中退だと思っている。

Q、次の印象的な記憶は?

A、高校一年の時3年生の女生に誘われて学校サボって東京へ遊びに行った。

その人とは数回東京へ遊びに行ったがHをすることはなかった。

手をつないで歩くのがとても恥ずかしかった。

僕は晩熟だ異性に興味を感じたのは高校3年からだ。

彼女の卒業とともに仲良しは自然消滅。

Q、次の印象的な記憶は?

A、高校2年の時アマチュア無線の免許を取得。開局JA1NUP

それまで無免許(アンカバー)でやっていたのだが免許をとってしまうと面白みが薄れてきた。

しかし、日本各地や外国から来るQSLカード(注釈( ))が楽しみだった。

これはJALの会費を払うと通常のハガキより安く送れ受け取れるものだ。

免許の試験はかなり難しかった。かなり長い文章で答える筆記試験も含まれる。

その試験勉強は後々とっても役に立った、

電子の性質や銅やガリウム、ゲルマニウム、ヒ素等の電子配列を暗記し物理の理解が進んだ。

また、当時の免許証はiphone6+位の大きさがあり日本国政府発行の立派なものだった。写真( )

それはヒッチハイクに役立った顔写真と日本国政府のはんこうが押されているので見せると安心して載せてくれるのだ。

秋葉原へ買い物に行くときはそれを利用した。

高校3年になると親がバイク(ホンダ.ベンリー号新車)を買ってくれたので通学や秋葉原行きはバイクになった。

しかし、冬は寒く、靴下を重ね履きしても凍傷になり今も指が変形している。

Q、次の印象的な記憶は?

A、高校3年の時は上級生がいないのでイタズラやり放題。

教室の天井裏に酒やタバコを持ち込んで下で授業をしているとき屋根裏で宴会。

農業高校なので牛や豚を飼育していて月に何回か当直で夜学校へ泊った。

畜産部には搾乳した牛乳をビン詰めする機械や混ぜるとコーヒー牛乳になるニュウソがあった、

それを使って牛乳を密造して町で売りさばき、それを元手にキャバレーに飲みに行った。

町内のキャバレーでは学校の先生とバッティングしたこともあったが、当時はよくある話であった。

翌日畜産の先生が今日は牛乳の出が悪いといった。

 

Q、次の印象的な記憶は?

A

Q、次の印象的な記憶は?

A

Q、次の印象的な記憶は?

A












 (写真  )犬吠埼灯台

 

 

(写真  )2015.02.28撮影

 

3mの引き戸

 

(写真  )2015.02.28撮影

 幅1.8mの引き戸


(写真  )2015.02.28撮影 米入れ 

 

4区画に仕切られているのが米入れ、今は羽目板がはずさてているが、

30Cm位の羽目板を上から差し込んで貯蔵量を調整できる仕組み

左に見えるのが2階へ上がる階段

(写真  )2015.02.28撮影

 

細い曲がった木材を上手に使っている


(写真  )2015.02.28撮影

 

細い曲がった木材を上手に使っている

(写真  )2015.02.28撮影

 

ブレキ板を鋏で切って半田付けで自作した鬼瓦(瓦ではないので鬼ブレキ?)

家紋で屋号(中屋)なかや(まるなか)マルナカ工業株式会社の名前の由来

(写真  )2015.02.28撮影

 

屋根上部

(写真  )2015.02.28撮影

 

北側から撮影

(写真  )2015.02.28撮影

 

(写真  )2015.02.28農業用作業場
 

父が自作した農業用作業場。僕が6歳ころ建てた。

今は、窓をアルミサッシに替えて2階を住居として貸している。

全体的に見ると貧乏人の工夫が各所に見られる。

瓦を使わず細い木材でも耐震性に優れった軽い屋根

コスト/パフォーマンスにも優れている

(写真  )を見ると自分の山から採った曲がった細い木を上手く使っている。 

僕の記憶にある祖父は実に楽天的で器用な人であった(左写真の右)

祖父は天然痘を患ったことがあり、顔がボコボコだったがご婦人にはモテた。

冗談が好きで人を笑わせた

右の写真は目の積んだ珍品モミジの板へ自筆で「常楽」と書き

壁に飾ってこれが自分の生き方だといっていた

この写真は多分僕が3歳〜10歳ころ

 
(写真  )祖父右

 

(写真  )2015.02.28撮影 池 

 

この写真は僕が3歳ころ落ちた消防用貯水池。僕の一番古い記憶。

今見ると3.5m角位の小さなものだがその時は海のように大きく感じた。

対岸まで泳いで命拾いした。凄く怖かったので70歳の今でも覚えている。

当時は着物(和服)を着ていて家に帰ったが誰もいなくって自分で着替えた。

(写真  )僕の写真は探し中






(写真  )母



(写真  )母


(写真  )父

 

(写真  )父

 

父と母、父は普段はおとなしくお人好しで奉仕作業でもさぼることなく、

仕事も器用にこなしたが、お酒が入ると一変し単なる飲んべいであった、

母の母は千葉県でも有数な豪農の生まれで仕事をしたことがない、いつも縁側にきちと座り読書等をしていた。

その娘だから品が良く言葉も丁寧であったが、

木下家は井戸も深く(10m位)つるべによる水汲みや貧農で田は日陰で手間ばっかくって収穫は少ない。

生家の井戸は1.5m位で水汲みは容易く田は多古米で有名になった肥沃で日当たりの良い手間食わず収穫の多いところであった。

ほんとの多古米は母の実家の付近のごく狭い範囲の体積地層が米にあった土地だけである。

木下家の生活は大変だったと思う。

僕は両親と祖父からは叱られたことがない。

それは僕は気が小さく親やじいさんばあさんに気を使っていたからでしょう。

しかし、祖母は僕がイタズラをすると竹箒(ほうき)で思い切り殴られた。

僕は両親と祖父は僕がかなり悪戯してもけっして怒らなかった。

祖母は木下家よりうんと格の高い家から嫁に来た。

当時は人より「家」が大事な時代であった。

僕の母の実家は木下家よりもはるかに格は上だった。

そして、母の母の実家は県内でも上位の格式のある家だった。

母の母が母の実家へ嫁に来たの母の父親が秀才で学問にたけ、

英語がぺらぺらだった、それを見込まれて嫁いんだということらしい。

(写真  )

 

左の写真は僕が生まれたころの家、中央が祖父右が祖母(僕が310歳ころ)

当時の地名=千葉県香取郡飯高村字安久山192番地

木下英昭は木下家の4代目長男 5人兄弟 姉2人と弟は心臓病で幼少時死亡

姉は記憶にない

1850年ころ本家の跡継ぎが外れ物が出来存続の危機にあった

波状した時の予備として仮に新宅を設けた

その頃の本家は広大な土地を所有していたが、

数十件分家したので良い土地は残っていないかった

したがって、家の場所も北風のあたる低くへこんだ土地である(写真  )

右の写真は2014年現在のものだが、山(といっても高さは10m位)の

崖っぷち、家も藁屋根の粗末なものであった(生まれた当時の(写真  ))

(写真  )

 

194642日生 本当は41日(エイプリルフール)だからバカになったのかも?

42日にしたのは、早生まれ11日から41日の間に生まれた人)

これは教育基準法で入学の年齢は1940年ころまで使われていた「数え年」という年齢の数え方に由来する。

数え年と言われてもピンとこないかもしれないが、日本は古くから、現在使われている「満年齢」ではなく、

「数え年」で年齢を数えてきた。生まれた瞬間(年)を1歳として、その後、正月(新年)を迎えるたびに1歳ずつ加える方式で、

同じ年に生まれた人は、誕生日に関係なく、正月が来ればみんな一斉に年を1つ取る。

により、祖父が気を利かして英昭はひ弱なのに早く学校へ行かせるのが可哀想だと思い役場に一日遅らせて届けたたしい。

でも、これが仇となり僕は勉強が学校が大嫌いになった。

 

本書説明資料

地図@木下家付近 ど田舎

地図A上記広範囲

地図B更に広範囲 日本も広い
地球=「科学的成功哲学」用

 

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